さまよえる天使たち

  四、  その夜

 静寂が夜の公園を包んでいる。 平蔵が帰ってきた。
いつもと同じ処(ところ)に立ち止まり、太極拳を始める。
少し遅れてごんちゃんも帰ってきた。 平蔵の真似を
している。

「ジョニーにやられたのか 」
「? … 」
「いがらっぽい爺ぃだ 」
「えっ、はい… あの人、ジョニーって言うんですか
 … どうして判ったんだろう? 」
「あいつには近寄るな。別に、悪い奴じゃあねえんだ
 が 」
「ものすごく力が強いんですよ 」
「おかげで、らしくなったじゃねえか 」
「そう… ですか… 」
ダンボールハウスに近寄り
「建てちゃいました、これ 」
「… 」

 平蔵がベンチの背を引いてガシャリ。
其処(そこ)に座る。

「あれぇ… そこを引くのか、なんだ、そうか… 」
「まあ、座ったらどうだ 」
「はい 」

 ダンボールハウスから折畳み椅子を取り出し、

「此処(ここ)を、ボクの場所にします 」
「いい腰掛けだな、どっちから持って来た 」
「はい、あっちのマンションの横の、ゴミ捨てから」
拾ってきた方を指さしている
「あっちは止めときな 」 平蔵は ごんちゃんとは
 逆方向を顔でさしている 
「あっちはいいんですか? 」
「こっちはいいが、あっちはだめだ 」

 あっちこっちと首を振って 今朝方向かった
方角を指さし

「 … じゃぁ、こっちは、あのジョニー…さんの
 場所なんですか? 」
「ジョニーの棲処(すみか)だ 」
「棲処(すみか)… やっぱり公園ですか? 」
  平蔵は遠くを見ている
「そういえば、昨日行ったコンビニの横にも、小さな
 公園があったなぁ… あの店長さん、弁当をチンし
 てくれましたよねぇ 内緒って言いながら、お知り
 合いなんですか? 」
「昔、棲んでいた 」 また遠くを見つめている
「でかい公園だった… いい棲処(すみか)だった。
 開発っていう奴だ 」 物思いにふけっている
「随分昔だが、ふらっと現れたんだ。俺たちは忘れち
 まっていたが、ふん、あいつは自分で『俺はジョニ
 ーだ』と言ったんだ。いつもカセットで『硝子のジ
 ョニー』をかけていた 」
「ガラスのジョニー? 知ってますよ、爺ちゃんが好
 きだった… 」

 平蔵の目は遥か遠くを見つめている

「初めは… 分からなかった… … 」 向き直って
「あんた、歌は好きかい 」
「はい、大好きです 」
「どんな歌が好きなんだい 」
「はい、えーっと、 都はるみです 」
「あんこ椿か 」
「はい、それに、ピンキーとキラーズ、仲宗根美樹も
 いいなぁ… 」
「なんでぇ、女ばっかしじゃねえか 」
「そんなことないですよ。北島三郎も好きです 」
  「サブちゃんか 」
「サブちゃんが好きなんですか 」
「歌は嫌えだ 」
「?… 」
「歌なんてえもんはなあ、有っても無くっても、
 どっちでもいいんだ 」
「でも… 」
「でもなんでえ 」
「だって… 」
「でもとか、だってなんてえのは、要らねえんだよ 」
「どうして、歌が嫌いなんですか? 」
「… 」
「歌は好いなあ…島唄だっていくつも知ってますよ。
 爺ちゃんは… 焼酎飲むと、いつも唄ってました 」

 思い出したのか、島唄を唄い始めた。
何を唄っているのか、異国の言葉のようだ。
平蔵はしばらく聴いていたが、

「まあ、それ位にしといちゃどうだ 一服つけるか
 い 」
「はい 」
「こっちぃ座れよ 」
「はい 」

 椅子を尻に付けたまま近寄り、灰皿を引きずって、
二人の間に置く。煙草に火をつけると、まるで生きて
いるかのような、緩やかに立ち昇る紫の煙。柔らかな
時が流れてゆく。
 ふと、二人は向かい合っているのに気付き、ばつが
悪そうに向きを変える。

「本当に嫌いなんですか? 歌が 」
「歌なんてえもんはなぁ 」
「ごめんなさい 」
「… 」

   柔らかな流れが澱みへと移り、 時は止まって
いるかのように沈んでゆく。ただ紫の煙だけが立
ち昇る。 平蔵が重たい口を開いた、

「あいつは… 栗のイガみてえなもんなんだ。 
 なんにでも八つ当たりだ 」
「ボクは嫌いです。だって悪い人です。ボクの袋を破
 いて、ぶちまけたんだ! 目つきだって、普通じゃ
 ないですよ 」
「よぉく聞くんだ。こっちはいいが、あっちはいけね
 ぇって、さっき言ったよな 」
「… 」
「あいつの棲処(すみか)なんだ 」
「棲処(すみか)って言ったって 」
「平たく言やぁテリトリーってやつだ。犬だって猫だ
 って、人間さまだってなぁ、生きているヤツはぁ、
 みんな持っているんだ 」
「でも、ボクの袋を破いて、捨てたんですよ。ただ見
 てただけなのに… 」
「本当にそうかい。ただ見ていただけじゃねえだろう。
 ジョニーが其処(そこ)にいなかったら、あんたが
 そのゴミ箱を開けたんじゃねえのか 」
「… 」
「判るんだよ、俺たちには… おめえさん、ひとつ間
 違やぁ 同類だぜ。同じ匂いのする奴は、判るんだ
 よ 」
「じゃあ、… どうして … 」
「ボクは、あのジョニーさんは嫌いです、 平蔵さん
 は… 」
「おい! おめえさん。なんか思い違いしてやしねえ
 か! 言っとくがなぁ、いつまでも居る処(とこ)
 じゃねえぞ、此処(ここ)は 」
「… ごめんなさい… 」 

 消え入るように、また萎びてゆく。 沈黙が澱み、
疲れ果てた男の喉を締めあげる。平蔵がその蛇のよう
な澱みを引き剥がした。

「おめえさんがどうして此処(ここ)へ来たのか、詮索
 はしねえ。だがなぁ、悪い奴がいかにもってぇ面ぁ
 してたら、みんな警戒するだろう。えぇ…騙そうっ
 たってそうはいかねぇ。どうだい… 本当のワルっ
 てぇのはなぁ、優しい顔して腹ん中ぁ見せねえも
 のさ。わかるかい。 いつまでつっ立ってんだよ、
なあごんちゃん。おめえさんが此処(ここ)へ流れ着
 いた。しょぼくれた面ぁしてたぜ… 誰でも一つや
 二つ、よそ様には云えねえようなもんを抱えてい
 るんだ。自分の傷をつつかれたら痛てえくせに、
 人さまの傷口は、つい悪戯しちまう… 悪気がな
 くったって痛てえんだよ。当たりめえのことだ
 がな。その当たりめぇってのが、なかなか出来
 ねえ。そんな浮世に生きているのさ 」
「… 」 平蔵、煙草を揉み消すと
「本題に入るとするか 」
「えっ? 本題! 本題って… 」
「うらはらって、知ってるかい。子供だってそうなん
 だ。純真で柔らかな天使なんだ、子供たちは。
 でもな、何にも知らねえって顔して、ちゃっかり欲
 しいもんには先に手を出すんだな… この、うらは
 らってとこが、人間さまの証って云うか、本性って
 もんだ 」
「それって、いいんですか? 」
「ねえよりましさ 」
「… ボクは… 」
「子供は居るのかい 」
「はい、今年、9才になりました 」
「九つか… 」
「ボクは一昨日… 」
「嘘は泥棒の始まりって云うだろう。泥棒だって、
 悪いことばかりして生きているわけじゃぁねえ。
 初めっから嘘つきだった訳でもねえんだ。ちっぽけ
 な間違いから始まるんだ… つきたくねえ嘘だっ
 てあるだろう… でもな、何故か人は、嘘をついち
 まうんだなぁ… 自分を守りてえのか…
 男と女だって、惚れた腫れたと騒いでいた頃を忘れ
 ちまうんだ。他にはなんにもいらねえ… と
 本気で思っていたんだ、そこに嘘はなかったはずだ。
 なあ、ごんちゃん、男はなぁ、がむしゃらに働き、
 がむしゃらに惚れるんだ、そうして子をもうける…
 親となる… つまり、そうしたことが滞りなく享受
 できれば、もうそれでよいのじゃ… 
 しかし、それが難しい… 難しいが故に、世の騒ぎ
 が絶えぬ 」
「? ? 」 
「なんじゃ、物足りぬ顔つきじゃな 」
「鬼平ですか 」
「ま、よろしい。若い頃は何事につけても、物足りぬ
 ものよ 」

 平蔵に翻弄されて少しは気がまぎれたようだ。煙草
を消すと、ほんの少し胸を張って、

「僕には、夢があったんです。 いえ、夢って言うか
 … そんな大それたものじゃなくって、ほんの小さ
 な… でも、きっと出来るって思ってたんです 」
「夢は消えちまうから夢って云うんだぜ 」
「え! そんな… 」 
「神様って、居ると思うかい 」
「神様? ニライカナイですか 」
「ニライカナイ? 権現様だっ! 」
「? 」 

 ますます翻弄されてゆくごんちゃん。 
突然立ち上がり、岩を駆け上がる

「ボクにはちゃんと、女房も子供もいます! 幸せな
 家庭もあります! 仕事だってまじめにやってま
 す。でも… 」
「白黒と、はっきりけじめを付けちまうのも、どうか
 と思うぜ。いい奴もいれば、厭な奴もいる。
 お互い様に好きも厭も、馬鹿も利口も入り交じって
 いるのが… 人の世ってもんだ 」
「また鬼平ですか… 」
「こいつぁ、近藤勇だ 」
決まったようにこの時刻になると
  暴走族が駆けめぐる
ごん 「よーし… 」

 爆音につられたのか、吹っ切れたように岩を滑り降
りる。楽しいのか、また駆け上がり、何度も何度も滑
り降りる。

「いいかげんにしねえと、擦り切れちまうぜ」
両手を上げて滑り降りると
「もう… 擦り切れちゃったみたいで… 」
「… 」
ごん 「判りますか? 」
「他(よそ)様には、ちゃんと見えているもんだ。気づ
 かねえのは自分だけだぜ 」

  平蔵立ち上がり、いつもとは逆の方に歩き出した

「あっ、何処(どこ)へ? 」
「ご不浄だよ 」 公園の隅のトイレへと向かった
「ご不浄かぁ… あの人って、本当に鬼平なのかなぁ」

 呟きは夜の静寂に吸い込まれてゆく。
暫らくして、平蔵が戻ってくる。岩の前に立ち止まり、

「眠(ねむ)る時間だ。 お休み… 元に戻してくれ、
 すまねえなあ 」
「お休みなさい 」

  平蔵がゆっくりと、ゆっくりと、岩に融け込む。
見つめているごんちゃん。 灰皿とベンチを元に戻し
座ろうとするが、止める。 
自分の椅子に座ると、夜空を見上げ何かを呟いている。
星のない夜空に向かって。
 呟きは夜の闇に吸い込まれてゆく。
  ブルッと震るって、催してきたらしい。
 平蔵の隠れた辺りをうろついて、トイレに向かう。
立ち止まり振り返ると、岩に向かって、

「おしっこだよっ 」

 遠く、暴走族が駆けめぐる。 いつにも増して激し
い爆音、マンションの明かりが消えてゆく。
 戻ってきたごんちゃん、大切なモノを扱うように椅
子を抱きしめ、ゆっくりと夜空を見上げる。 
先刻まで何もなかった夜空に、数えるほどの星のまた
たき。

 身動きもしない影が幽かに震えている。
夜が、公園の澱みを包み込む。