さまよえる天使たち

  二、 その夜

 夜の喧騒に紛れて、遠くから声が聞こえる。 二人
は公園に戻ってきた。しょぼくれていたあの男、さっ
き出遭ったとは思えないほどに、もう馴染んでいる。
「美味しかったなぁ… 温ったかくって… ありが
 とうございました 」 深々とおじぎをする
「それに、ごんちゃんて言われたのは… 子供の頃は
 みんながボクのこと、ごんちゃんって呼んでまし
 た 」
   爺さんは気にもせず、岩の前で太極拳を始める。
ごんちゃんと呼ばれていた男は、先ほどのベンチに座
った。 すると爺さんが、

「おい! 其処(そこ)は俺の場所だ 」
「えっ? 」
「おまえさんは、自分で探すんだな 」

 云いきかせるような口ぶりだった。ごんちゃんは訳
が分からず立ち上がり、少し離れた処に立ち竦む。
 頭を垂れだんだんと萎びてゆく、 青菜に塩、と云
った塩梅だ。 遠く、暴走族の爆音が聞こえる。

 ひと通り体を動かした爺さんはベンチに座る。無言
の時がゆったりと流れている。上目遣いに様子を伺っ
ていたごんちゃん、ようやく口を開いた。

「あの… どうして、連れてってくれたんですか? 」
「… 」
「いつもああいう物、食べてるんですか? 」
「真新(まっさら)の… 煙の礼だ 」
「あっ、まだありますよ 」
「持ってる 」
「まだありますから… 」
「いいんだ 」

 取り出そうとしたが『いいんだ』と云われて、また
萎びてしまう。 
爺さんは改めて男を眺めると… そっぽを向いて…

「じゃぁ、貰っとくか」 萎びた耳には聞こえないよ
うだ 立ち上がると
「そんなに言うなら、貰っとくよ 」

 はっと気付いて煙草を取り出す。 爺さんはベンチ
の背を引く。すると電車の椅子のように、ガシャリと
音が響いて反対を向いた。目を見張るごんちゃん。
爺さんは当たり前のように其処(そこ)に座った。
岩に背を向ける格好である。

「あれっ! どうなってるんですか、このベンチ 」

 ベンチに気を取られ、煙草のことなどもう忘れてい
る。爺さんは催促しているのか、自分のライターを弄
んでいる。 ごんちゃん、やっと気付いて煙草を渡す。

「あっ、どうぞ 」  もじもじした笑顔は 
なかなか愛嬌がある
「あの… 自己紹介してもいいですか 」
「さっき聞いた 」
  爺さんは自分のライターでタバコに火をつけ
    残りはポケットに仕舞い込んだ
「あれはだって苗字だけじゃないですか、名前は長矩、
   阿波(あは)根(ごん)長矩(ながのり)って言います 」
「忠臣蔵か 」
「えっ?… 」 ニコニコしながら
「はい、爺ちゃんが大好きです。生まれは長野県下伊
 那郡売木村(うるぎむら)の山奥です。でも、阿波根
 て言う名前はボクん家だけなんですよ。爺ちゃんが
 沖縄の読谷(よみたん)の生まれで、漁師だったん
 です。戦争中に自分の舟で島を抜け出して本土に
 渡って、それで売木に流れ着いたって言ってまし
 た。だから、阿波根ていう変わった名前なんです。
 小さい頃、近所の友達からごんちゃんて言われて 」
「何度も聞いた 」
「… それで父ちゃんは、売木で山と百姓をやってま
 す。母ちゃんも… 」 
「もういい 」
「あっ… ごめんなさい… 」
「おめえさん、何しにきたんだい 」
「… … わかりません 」 
落ち込むゴンチちゃんを尻目に、
爺さんは語り始めた
「この辺にはなぁ、いろんなやつが流れてきた。
 あんたくらいの年の男や、もっと若いの。それに俺
 のような爺ぃもな。あぁ、中年女もいたんだ。
 … 元自衛隊ってやつがいた。なにか発作持ちらし
 くてなぁ、上官のシゴキにあって、今で云うパワハ
 ラだ。ストレスが溜まると頭ん中で誰かが喋りだす
 んだと。神経衰弱ってやつだな。もともと生真面目
 だったんだろうが、パニックを起こして、発作的に
 その上官を刺したらしいんだ、ハサミでな。全治一
 ヶ月くらいだったらしい。裁判で上官のシゴキも
 問題になって、執行猶予がついたんだ。だがな、
 病ってやつはやっかいなもんだ。
 保護司の世話でなぁ、棲むとこも仕事も口を利いて
 もらったんだが、前科モンの当たり前(めえ)って
 やつだ。誰もが良くしてくれるわけじゃぁねえん
 だな。パワハラまではいかねえが、なにかと痛(い
 て)え処(とこ)をつっつくやつがいたらしい。
 それでまた、頭ん中で誰かが囁く。またパニック
 おこして仕事にならねえ。その繰り返しで、とう
 とう棲処(すみか)も仕事もなくして…此処(ここ)
 に流れてきたんだ。気の毒といやぁ、そうなんだ
 が… 多かれ少なかれ、此処(ここ)に流れてくる
 やつは、似たようなもんだ、世の中からあぶれち
 まうんだろうなぁ。みんな必死に生きているん
 だが… 横道にそれちまう阿呆(あほう)も少なく
 ねえ。これも人の世、悲しんでばかりじゃぁ、
 いられねえんだ 」
「… 」
「その自衛隊ってやつは、たしか東北の漁師のせがれ
 だった。ごんちゃん、あんたと似たような年格好
 だったが、ひょろっとした陰気な男だったなぁ 」
「その人、それからどうしたんですか? 」
「聞きたいかぃ 」
「はい 」
「それがなぁ… 近所に住み着いていた中年女とネ
 ンゴロよぅ 」
「ねんごろ? 」
「出来ちまったのさ、おこもさんの相合い傘ってやつ
 よ 」
「へぇー、 おこもさん… 」
「今で云うホームレスだ。この俺も、れっきとした
 おこもさんだぜ 」
「おこもさん。 響きがいいなぁ… 」
「おいおい、納得するとこじゃぁ、ねえがな 」
「はい、そうでした 」
「二〜三年一緒に暮らしていたが、いつのまにか女が
 居なくなったんだ。あの男、余っ程惚れていたのか、
 狂ったように探し回って、そこいら中のダンボール
 めくって、仲間たちにさんざ、迷惑をかけてなぁ、
 自暴自棄ってやつだ。とうとう… 夜中に撥ねられ
 て死んじまった。轢き逃げよ。犯人がどうなったか
 なんてぇのは、判りゃあしねえ 」
「悲しいですね 」
「そうかい… こんな公園(とこ)で女とネンゴロなん
 てぇのは、羨ましい限りさ。あの野郎… 」
「… 自衛隊ですかぁ… 」
「ミュージシャンでダンサーっやつもいたなぁ 」
「へぇー 」
「四国の山奥育ちよ。グループサウンズに憧れてなぁ、
 GSだ 」
「知ってますよ、パープル・シャドウズの『 小さな
 スナック 』 」 
「そうかい。高校のときにバンドを組んだらしいんだ
 が、都会にも憧れていたんだなぁ。勉強なんかやり
 ゃぁしねえから、落ちこぼれだ。高校中退に家出。
 お決まりのコースだな。憧れの大阪でさんざ揉まれ
 たらしいが、根性だけは一丁前(いっちょうめえ)で
 なぁ、嬉しそうにダンサーにも挑戦したんだ。なん
 て言ってやがった。憧れもいいんだがなぁ、下手の
 横好きってやつは、厄介なもんだ。
 シンガー・ソング・ダンサーだってヨ 」
「へぇ… 」
「結局、叩き上げのおこもさんにはなったが、ふらっ
 と居なくなっちまった 」
「そうですか… 」 二人とも遠くを見ている

 暴走族が遠く、近く、 山並みに響く遠雷のように
駆け巡る。時の流れは、川の澱みのようにゆったりと
している。

「聞いてもいいですか… 」
「座ったらどうだ 」
「はいっ 」

 生来呑気者なのか、気を取り直すのも早いようだ。
ハッキリと返事をして爺さんの隣に座ろうとする。

「おい! 」 あっちだ!と云うように顔で合図を
   した。
「ごめんなさい 」 丁寧にお辞儀をする

  爺さんは、ポケットから貰った煙草を取り出し、

「何て言うんだ? 」
「だから、あはごんって言ってるのに… 」
「何度も聞いたよ 」

煙草だと気付いて照れながらも
  また深々とお辞儀をする

「ごめんなさい」 爺さんはじっくりと眺め
「そんなお辞儀は、久しぶりだ 」
「マイルドセブン松川って言うんですよ 」
ニッコリしてまた爺さんに近寄るが睨みつけ
られ
「ごめんなさい… 」
「ごめんなさいは要らねえ、どうだい、一服つける
 かい 」
「はい、ありがとうございます 」
「いいってことよ 」

 爺さんは、箱ごと渡そうとするが思い直し、箱か
 ら一本出して渡す。 火をつけると、 まるで生
 きているかのような、緩やかに立ち昇る紫の煙。

「臭くねえか… 」
「これ、匂いが少ないんですよ 」
「! 俺だよ 」
「あぁ、すみません 」
「すみませんも、ごめんなさいも、要らねえよ 」
「はいっ … 気を付けます 」

 後退りして少し離れた処に座る、体育座りである。
ポケットから携帯灰皿を取り出すと、

「あのぉ… 聞いてもいいですか 」
「… 」
「名前は… なんて云うんですか? 」
「… 忘れた 」
「じゃあ、何て呼んだらいいんですか 」
「いつまで此処(ここ)に居るつもりなんだ 」
「… … 」 またまた萎びてゆく
「まぁ、いつまで居たっていいんだが。そうさなぁ
 平蔵とでも呼んどくれ 」
「えぇ? 平蔵… まさか、鬼平ですか! 」
「平蔵でいいんだよ、なぁ、ごんちゃん 」
「ひょっとして… 長谷川さんじゃないですよね 」
「おまえさん、何処(どっ)から来たんだい 」
「… 」

 澱んだ流れはますますゆったりとして、まるで止
 まってしまったみたいに。 それでも流れは続い
 てゆく、遥か彼方に。

 暴走族の爆音、遠く、近く、
平蔵と名乗った爺さんが立ち上がった。

「眠(ねむ)るとするか 」 

 煙草を揉み消し、こちらも携帯灰皿に入れポケッ
トにしまう。雲の上を歩くようなゆったりとした
太極拳岩の前まで来ると

「使っていいんだぜ 」

 現れた時と同じように、ゆっくりと岩に融け込む。
いつとはなしに岩山だけが街路灯に照らされている。
立ち竦むごんちゃん。

 暴走族の爆音、再び高まり、遠ざかる。
静寂が忍び寄り、人影も何もかも、夜の暗さが
飲み込んでゆく。